桐生あんずです

日常やプログラミングについて書いています。

「どもる体」(著: 伊藤亜紗)を読んで思ったこと

 

 

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

5月の後半に出た本で、ずっと気になっていたのだけれどなんとなく時間が取れなかったり近所の書店で探そうとしても見つからなかったので今日になるまで読むことができていなかった。もう電子書籍で読んだ方がいいな、と思って医書.jpにアカウント登録して電子版を購入してみた。

本書で印象的に残った話

 本の大まかな内容としては、「当事者へのインタビューを行いつつ、吃音のメカニズムと向き合い方を身体から探って捉えていく」といったものだ。具体的には、吃音の原因、人間の言葉の発生のメカニズム、連発から難発へ、難発から言い換えへの転換の心理状態、本書に登場する当事者たちの吃音への向き合い方などについて書かれている。

吃音治療のメソッドが書かれた医学書ではなく、吃音のメカニズムを理解しつつ当事者たちがどう吃音を捉えて行動しているかを分かりやすく考察されている。

中でも、吃音のメカニズムとして「身体がコントロールを外れた状態」にあって、自分の言いたいことが頭の中にあっても発声を思い通りに行えない状態に陥っていると説明されているのがすごく腑に落ちた。

吃音はいわゆる連発と呼ばれる、「たまご」と言いたくても「た、た、た、たたまご」と最初の言葉が何度も出てきてしまう状態から始まるとされている。

その状態に対して恥ずかしさを強く覚えたり、コンプレックスを強く感じるようになると「難発」といった、「……っ、……っ、たまご」と「連発」をできるだけ避けて言葉が出なくなる状態がしばらく続きやっと言葉が出る話し方に移行する。この状態になるととてもストレスを感じさせられる状態になると書いてあって、ちょっと共感する部分があった。

その次に、「言い換え」とされる、「たまご」が言えないために別の言葉(例えば、「鶏卵」という言葉が使えるだろう)ですぐに言い換えて吃るのを避けてコミュニケーションを円滑に図る行動に至るようになる。また、言い換えをする際はすぐに発話できるように頭の回転を高速化させて0.0001秒単位で言い換えの言葉を思いつく作業を頭の中で行なっている人もいるとのこと。

この流れに関しては、ネットに置かれている様々な文献で述べられていて多少納得はしながらも「本当にそうなんだろうか」と今まで思う部分があった。だけれど、本書では心理状態と振る舞いを細かく分析しながら連発→難発→言い換えの流れに至る過程が述べられていて大変分かりやすかった。

また、吃音を回避する手段として普段とは違う自分として演技して振舞ったり、メトロノームを使ってリズムをとって発声するといった行いを模索している当事者の人々について書かれていたのが興味深かった。実際にそれで完全に克服できるかは難しいところで、特定の人と会話する時に吃ってしまったり、中々うまくいかない状況が存在するとのこと。

「緊張しているわけではないんだけど特定の人と話すとなぜか吃音がよく出てしまう」といったシチュエーションに関してはすごく分かるものがあった。そういったことが起きるとその人といると緊張しているように相手に思わせていそうで、申し訳ない気持ちになってしまうというのもすごく共感してしまった。

また、吃音について意識しすぎて、言い換えや演技を行うことで普段の自分が出せなくなってしまう、どちらかが本当の自分かわからなくなってしまうことについて「二重スパイ」現象として説明されていたのが面白かった。

その現象から逃れるために「言い換え」をやめて多少変でもいいから「連発」をしてもいいと思うようにし、精神的に負担をかけずに生活を考える当事者の話も興味深い一方で、「言い換えをする自分もまた自分である」だと考える当事者もおり、皆吃音の克服に対して様々な対応を取っていることが最後の前の章と最後の章で言及されていた。

 

吃音は「身体のコントロールが効かない状態」から起きうるものだと考えられるが、吃音を気にしすぎることで、難発や言い換えを行なったり演技を行うような、所謂「乗っ取り」といった状態の流れがあることが本書を読んで強く実感させられたのだけれど、「どこまでいっても言葉がうまく出ないことに自分を振り回されまくるのって身体的にも精神的にも相当負担デカくないか……?」と一応自分も当事者の身でありながらかなり引いてしまった。それが日常的になってるから否応なしに適応しなきゃいけないのだけれど。

上記の本書に書かれた印象的な話を思い返していくと、吃音の症状は表面的には言葉が出ないといったものだが、総合的に捉えていくと吃音症とは「自己との乖離」を擬似的に引き起こし続けるものなのではないかと考えるようになった。

 

自分の吃音について

私も小五の頃から吃音がある。なんでそうなったのかはよく覚えてないけれど、いつの間にか連発が出るようになって、上記の流れ通りに難発が出るようになり言い換えをするようになって今に至る。

吃音についてからかわれることが多かった中学時代が一番症状が顕著に出ていた記憶があるのだけれど、高校に入ってからじわじわと克服が進み、自分に対して自信がつくスキルが得られたり、吃っても気楽に話せる友人が増えていったことで、ある程度吃る癖は残っても「話せる時は話せるし吃る時は吃るものだから色々考えすぎても仕方ないな」と普段考えるぐらいにはなった。*1

そんな風に捉えるようになってはいるけれど、実際のところ未だに現実の場で自分の吃音について話すのも話されるのもまだちょっと苦手です。話す時は基本的に空気が微妙に暗くなるし、話される時はどう反応を返したらいいか分からなくなるからだと思う。また、許容はしつつあるけれど、多分まだある程度のコンプレックスになっているのだと思う。

本書を通して、自分の吃音のことも意識して共感しながら読むことが多かったのだけれど、一方では実際のところ「体のコントロールが効かない」という土台は一緒でも、吃る頻度が全く違ったり、吃音に対しての捉え方が違ったりで、もし本に登場されている当事者の方々と実際にお会いできたとしても強い仲間意識が湧くといったことはないかもしれない、と感じている。

本書の中で当事者の一人として出てくる京都大学卒の八木智大さんとお会いしてお話したことが実はあるのだけれど、彼の吃音の傾向と対策方法と私の吃音の出方は全く違うように思えて、確かに医学的には同じ「吃音症」として診断されるのだとしても「同じ辛さと悩みを持った人」と感じられることはあまりなかった記憶がある。

なので、皆それぞれ、自分一人で自己の吃音と向き合って精神的な負担を減らしたり、克服していく道しかないのだと思う。

でも、自分以外にいる一個人の吃音者と関わることである程度の知見は得られると思うので、本書において「演技」について強く興味関心を持たれている当事者として描かれていた東大スタダリングの山田舜也さんとは一度お話をしてみたい気持ちになりました。

 

まとめ

全体的に自分との距離感が近い本であったので多少学術的な話が多めではあっても理解しながら読めたと思います。

読み終わってからすぐに「あっこれは感想書きたい本だな〜」と思って本を読んでからすぐにPCに向かって無我夢中に感じたことを書きちらしてしまいました。

デリケートな話題だとは思うのである程度真面目に書きましたが、この本を読んで吃音を客観的に捉えながら素で思ったことは「えっなんで人と話すためだけにこんな言い換えとか話しやすい演技とか毎回めんどくさいことずっと考えさせられなきゃならないんだ!?!?!?よく考えたらめっちゃだるくないか!?!?」ということでした。

吃音と約10年ぐらい付き合うようになって無意識にそのようなことをやっていましたがよく考えたらめちゃくちゃだるいしすごいし頑張ってますね。(褒めてくれる人がいなそうなので自分で褒めちぎる)

そういったストレスから逃れるためにも本書では「二重スパイ」の状況から逃れて自分から敢えて吃ることを避けないで、自分に負担をかけずに生きることを選ぶ人がいることも納得しました。

自分の吃音の向き合い方は今後も変化したりしなかったりだと思いますが、できるだけ吃音のことを考えてもだるくならない生き方を考えられたらいいなあと思いました。そんな感じです。

 

おまけ

本書の著者である伊藤亜紗さんが公開中の「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」のレヴューをされていました。というか、今日この記事を発見して「早く『どもる体』読まなきゃだな」と思い本書を読んだのでした。

wired.jp

この記事では、「どもる体」を持った志乃ちゃんの周りにいる人々、所謂「どもられる体」の人たちの振る舞いについて言及されています。

人が吃っている姿を見て色々な対応をする人が世の中にいると思うんですが、「落ち着いて」「ゆっくり話して」と気にかけてくる人や、どもる姿を見て面白がってツッコミを入れる人もいたり、本当に色々な人がいると思います。

よく吃る側からみて「そういったことを言われるとちょっと傷つく」みたいに思うことが時折あります。でも、よく考えたら「どもられ」る人々はどもる人と関わるたびに普段あまり行われないコミュニケーションの場に遭遇しているとも言えるんですよね。

だからこそ、そんなイレギュラーな状況において完全な正解のコミュニケーション対応を常にできる方が難しいし、それに対して考えすぎてしまうのも良くないな、と最近思うようになりました。

この記事でも述べられてますが、そもそもこれらのコミュニケーションに完全な正解はないんですよね。皆人それぞれ言われて気にしないことと傷つくことがある気がするし、突き詰めていくとそれは吃音の枠を越えた話になってくるのだと思います。

 

志乃ちゃんは自分の名前が言えない」、原作が本当に好きなので早く映画見に行きたい。京都だと、京都シネマで8/18~に上映開始とのことです。(宣伝)

 

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

 

 


*1:これは、症状の度合いというよりは自己の吃音に対する捉え方が変化したとも考えられる